レノの出張日誌その1







 まどろむ意識の中でまず最初に浮かんだ事といえば、妙に頭が重い…ということだった。ついで頭だけで
なく全身が鉛のように重く感じて、レノは目を閉じたまま不思議に思った。酒場で歌を披露するという職業
柄、客に酒を勧められるのも良くあることだが、酔いやすいくせに二日酔いの類はあまりならない体質なの
だ。
おまけにここ数日はいつもの店ではなく、旅をしていた頃に世話になっていた馴染みの店に出張としてきて
いるために、酒量もいつもの半分にも満たない。到底二日酔いになるわけはないので、こうなった原因を探
ろうと眠る前の出来事を思い返してみた。
 依頼を受けた日数も残すところ明日までとなって、確かあの人に土産を探そうと昼下がりの市場に出かけ
ていたはずだ。様々な露店を眺めながらこれといった物も見当たらず、気がつけば市場の外れまできてしま
ったので仕方なく引き返そうかとした刹那、突如背後に現れた気配が口元に何かを湿らせた布を押し当てて
きたのだ。驚き硬直したと同時に鼻腔からほのかな甘い香りを感じたと思ったら、急速に意識が遠のきだし
た。
 訳もわからないまま力を失った体を誰かに抱え上げられたところで、完全に気絶してしまったらしい。
 そこまで記憶が追いついたところで、レノは横たわったまま大きくため息をついた。まだ力が入らない体
を持て余してぼんやりと目を開くと、明らかに高級品だとわかる調度の数々が目に入ってきた。青年が寝か
されているソファも肌触りといい、柔らかく押し返す弾力といい文句なしの一級品であることがわかる。け
れど、それを確認した途端レノは不快そうに眉を寄せて、盛大に舌打ちをした。
 この町に以前立ち寄った時の出来事が頭をよぎって余りよくなかった機嫌が一気に下降する。せめてもの
救いは目が覚めた場所が寝室のベッドの上でなかったということくらいだった。
 「あンの変態オヤジが…っ」
 普段の彼を知る人が聞いたらさぞ驚くだろう乱暴な口調で低くぼそりと漏らすと、だるさを押しのけるよ
うにゆっくりと上半身を起こした。
 その途端足元からじゃら、と耳障りな金属音がして、目を向けると鉄の足かせが片方に嵌められていた。
ご丁寧に見るからに重そうな鉄球のオプション付きである。おそらく逃げられないようにつけられたものだ
ろうが、そこまでして捕まえようとする男の執念深さに怒りを通り越して呆れてしまった。
 以前訪れたときから既に数年は経過しているというのに、未だにあの貴族は自分に執着しているらしい。
忌々しそうに顔を歪めて、腹立ち紛れに目の前の机を蹴倒そうかとした青年の背中に、押さえきれない喜色
をにじませた声が飛んできた。







 記憶の陰







 「やぁ、レーク。お目覚めかい?」
 早足で近寄り向かいのソファに腰掛けた人物に、レノはいつもの人当たりの良い笑顔のかわりに剣呑なま
なざしを寄越しただけですぐに窓へと顔を背けた。
 レノに親しげに声をかけてきたこの人物こそが、今回の拉致事件の犯人だった。
 「貴方にはもう二度とお会いしたくありませんでしたよ」
 慇懃無礼の言葉どおりに、この町を支配下に置く貴族に向かって氷点下の声音でにべもなく言い放つ。そ
んなレノの態度にも気分を害するどころか一層顔を緩ませて、男はあれこれとレノの機嫌をとろうと話しか
けてきた。
 「銀月のレーク」として名が売れ始めた頃、たまたま訪れたこの町で、噂を聞きつけたこの貴族に城に招
待されて歌を披露したのは数年前のことだった。あの時も散々ごねられて滞在期間を延ばした挙句、町を離
れてしばらくたっても城に招こうと何度も手紙が届いたのだ。レノが記憶している変態のなかでも群を抜い
たしつこさである。
 あれから随分たっているというのに、男はむしろ以前よりもレノに尋常じゃない執念を持っていたらしい
。依頼先の店主にも自分がこの町に来ていることは口外しないようにと、そして名前もレノで通していたの
にどこで嗅ぎつけてきたのか、こんな犯罪まがいなマネまでしてレノを手に入れようとしてくる男のしつこ
さにレノはほとほとあきれ果てた。
 領主としては、割と良い部類に入る貴族だと町を見る限りレノも認めるところだ。みてくれも50に手がと
どくとは思えないくらい若々しく男前のほうだとも思うが、自分に向けられている欲にぎらついた目が全て
をことごとく台無しにしていた。
 男のほうもあからさまにそんな態度を見せているわけではないのだが、女性的な容貌から長年受けてきた
様々な経験を持つレノにはあっさり見抜けてしまう。
 本当は今にも自分に手を伸ばしたいだろう男の心情が手に取るようにわかって、レノはその端正な唇に酷
薄な笑みをのせた。
 「最初にお断りしたとおり、どんなに金を積まれ様が手厚い待遇を約束されようが、俺は貴方の元にはい
きません」
 冷たい微笑でぴしゃりと言い放つレノに、しかし男はまだ余裕の笑みを浮かべる。
 「そんなことをいってもいいのかね?私がまだ甘い顔をしているうちに、うなづいておいたほうが君の身
のためでもあるんだがねぇ…」
 何が男にそんな自信を持たせているのか、意味深な台詞の後に机に置かれた呼び鈴を鳴らす。訝しむレノ
を意味ありげな笑みを深くしながら眺めている男に呼ばれた頑強な体躯の男がレノの両脇に達、一人は彼の
肩を掴んで動けないように固定すると、もう一人が青年の腕を強引に突き出させて袖を乱暴に裂いた。
 「…何のマネですか」
 「さぁ?なんだろうね?」
 裂かれた袖に眉を寄せるレノに、悠然と足を組んだ男が答えをはぐらかしてさらにもう一度呼び鈴を鳴ら
すと、今度は執事らしい老齢の男が銀盤に何かを載せて運んできた。
 「君は、吸血鬼のハーフだそうじゃないか?」
 そういって執事が恭しく主人に差し出した銀盤から銀製の十字架をレノに見せるように掲げる。
 「…それがなにか?」
 相変わらず素っ気無く答えながら、レノはこれから起こることに薄々見当がついて、悟られないように内
心で構えた。
 「こっちの盆の中身は聖水だ。これを聖水で清めて君に印をつけようと思ってね。君が私に逆らったとき
の罰として…そして私のものだという証としてね」
 一種の躾けだと思ってくれてもいい、と男は優しげな口調で囁くと、一度聖水に浸した十字架をレノのむ
き出しにされた手首に押し当てた。
 「・・・・・・・・・・・・っ」
 室内に肉の焦げるニオイと音がやけに響く。
 「ほう?さすがだね、ハーフと言えどもこれに悲鳴を上げなかったのは君が初めてだよ」
 辛うじて声を押し殺したものの、痛みに顔を歪めたレノの顎を掴んで覗き込むようにして、男は楽しそう
に告げた。
 「ま、るで…私以外にも…した事が、あるような、口ぶりですね…」
 荒くなる呼吸を押さえつけながら、顎を掴む指を払いのけて挑戦的に言い返すと、男はにっこりと笑い返
した。
 「吸血鬼という種族はとても美しいからね…前に何人か飼ったことがある」
 まるで自慢のペットを話す様な男に、レノはそうですか、と俯いた。
 「ですが…生憎俺は前の何人かの様に貴方に飼われるつもりはありませんから」
 強がるでもなく悔しさも伺えない、あくまで冷静な声を不審に思って男が眉を寄せるのと、レノが顔を上
げるのは同時だった。
 「俺は少なくともこういうことには経験あるんですよ。心配しなくても、貴方の相手はちゃんといるじゃ
ないですか。…ほら、そこに」
 冬の湖を写した瞳の色が鮮やかな真紅に染まっている。禍々しい血の色に男が釘付けになっていると、く
い、と男の袖を引く何かがあった。
 不思議に思って振り向いた男が驚愕の表情で凍りつく。
 男の目の前にはかつて飼っていた吸血鬼達が血にぬれた腕を伸ばして男にすがり付いてきていた。
 男が恐怖の叫びを上げて死に物狂いで絡みつく腕を引き剥がそうとするが、払っても払っても吸い付く腕
を振りほどけない。
 突然何もない空間に恐怖のまなざしで必死に手を振り回し始めた主人の狂乱振りに、あっけに取られた男
達だったが、ころころと鈴を転がすような笑い声を立てた人物に思わず顔を向けた。
 「さぁ、遠慮は要りません。貴方方も楽しんではいかがですか?」
 血色の瞳が妖しい光を帯びてた次の瞬間、周りの男達もいっせいに恐怖の悲鳴を上げた。貴族の男のよう
に腕を振り回すもの、怯えて腰を抜かし、ただひたすら許しを請うもの、室内は青年を除いた全員が強行状
態に陥っていた。
 この異様な光景の中、ただ一人冷静な青年はおもむろに屈みこんで、己の足につながれている鉄球の鎖を
掴むと、パンをちぎるように無造作に引きちぎった。そしてのた打ち回る執事らしい男のそばに近寄ると、
鍵束を抜き取って足かせをはずした。
 そうしてようやく自由を取り戻すと悠然とした足取りで扉へと向かい、部屋を出ようとしてふと振り返る。
 「だから言ったでしょう?俺は前の方達とは違いますと。…では、もう会わないことを祈って。失礼しま
すね」
 優雅に一礼して静かに扉を閉めた。







 無事に部屋から抜け出すことはできたものの、男達の前では気丈に振舞っていたレノもそう長くは保てず、
ふらつく足をごまかしながら、できるだけ城の中を進むと使用人たちがつかっている棟までたどり着いた。
 以前来たときと大して構造が変わっていないのはありがたいことだったが、無駄にでかい城だから人目を
避けながら外に出ようとしても外壁につくまでの距離がとんでもなく長い。しかもレノが監禁されていた部
屋は城の一番奥まった位置にあるために、どうしても途中で休まなければたどり着けそうになかった。
 男は吸血鬼とのハーフと思っていたようだが、レノにはもうひとつ、人狼の血も流れている。だからこそ
見た目を裏切る腕力や常人はずれの体力と俊敏性を持っていたのだが、まだ残っている薬の効果と十字架の
ダメージがひどい。
 とにかく人目のないところを、と使用人たちの棟のさらにはずれにある一室に忍び込むと、そこは物置ら
しく使われなくなったものが雑然と置かれていた。
 埃がうすくつもっているところから、おそらく使用人たちにもこの部屋の存在は忘れられているのだろう
。念のため扉と窓の死角になる物陰にひっそりと身を隠して、ようやく息をついた。窓の外は夕焼けがそろ
そろ夜に侵食されはじめようとしている時間帯だ。ここからなら城の塀まで目と鼻の先だから、夜の闇にま
ぎれて抜け出すまで、ある程度休んでいても構わないだろう。
 そこまで算段をつけたレノはけれど腕を抱え込んでなんとか苦痛の呻きを漏らさないようにするので精一
杯だった。
 先ほど男達に使った幻覚を見せる能力は吸血鬼のものだ。相当高い魔力の持ち主であるが、魔術の心得が
ないレノは、魔法は使えないものの、吸血鬼の特性を刺激されれば、ある程度吸血鬼の能力を使用できるよ
うになる。ただし、その間は吸血鬼に近づくためか普段はそこまで深手にならない吸血鬼の弱点も致命傷に
なりえるのだ。
 現に、今手に負った十字架の痕は火傷のように爛れて見るも無残な傷になってしまっている。全身に吹き
出る冷や汗も、レノが負ったダメージの深刻さを物語っていた。
 レノは裂かれた袖を破りとるとケロイド状になったに包帯代わりに巻きつけて、壁に寄りかかる。到底無
視できる痛みではないが、今は少しでも休んでおかなければならない。
「エレさん…」 
 無意識に言葉が零れる。離れている間、ずっと思い続けてきた想い人が脳裏によぎって、会いたいと強く
想った。あの人に会うためにも、ここでつかまる訳にはいかない。焦る気持ちを抑えるように壁に背を預け
た青年は、傷ついた腕を抱きしめるようにして目を閉じた。







 痛みと戦いながらじっと息を潜めていたレノは、日が落ちて完全に夜になるのを待つと、音を立てないよ
うに部屋から抜け出し、そのまま一気に使用人棟から外壁へと向かい始めた。
 目と鼻の先といっても外に出るまではまだいくつかの棟を抜けなければいけない。慎重に進みながら最後
の建物の廊下を突っ切ろうとして、不意に人の足音が聞こえたレノは、とっさに手近な部屋に飛び込んだ。
 飛び込んだ先はリネン室だったらしく、大量の寝具や衣類が置かれていた。レノは近くの山の陰に潜んで
気配を殺していたが、先ほどの足音の主はこの部屋に用があったらしい。少しして部屋の扉が開いて大きな
洗濯籠を抱えた少女が入ってきた。物影に潜んだまま、自分を探す種類の人間ではなかったことに密かに安
堵したが、今度は違う意味で困った事態に陥った。
 今のレノは吸血鬼の特性が色濃く出ている状態だ。この状態で受けたダメージを回復するのに一番手っ取
り早いのは人の血を得ることなのだが、エレ以外の人間から血を得る事にレノは少しの間ためらった。
 そんなことも知らずに少女は山盛りの洗濯籠を床において種類ごとに選別し始める。近くの山にあらかた
分けてしまうと、今度はレノが隠れている山のすぐそばで残りをより分け始めた。
 レノの吸血鬼としての特性が、少女の気配を間近に感じて強力な吸血衝動として現れる。なんとか押さえ
つけようと努力していたのだが、身じろいだ拍子に布の山に触れて一部が崩れてしまった。
 「…誰かいるの?」
 崩れた布の塊に驚いた声を上げた少女は、警戒しながらもそっと声をかける。
 レノは内心舌打ちしながら数瞬迷った挙句、ゆっくりとした動作で少女の前に進み出た。
 現れた青年の姿に少女は思わず息を呑んだ。腰よりも長い艶やかな銀髪にすらりと伸びた長身、すこし俯
いた顔は女性的だがとても整った顔立ちをしていた。
 予想外の美丈夫に、少女が驚いて立ち尽くしていると、少女に向き合った青年が伏せていた瞳を真っ直ぐ
に向けてきた。
 鮮明な紅の瞳に綺麗だけれどなんだか怖い色だ、と少女は思って、そのまま意識が霧に覆われていった。
焦点の定まらない少女の視線を受け止めて、レノは優しく微笑むと、
 「…おいで」
 穏やかに声をかけて無事なほうの手を少女に差し伸べた。
 ほのかに頬を染めた少女がふらつきながらも青年に歩み寄り、差し出された手に自らの手を載せる。
 引き寄せられて青年の腕の中に収まったところで、少女は糸が切れたように意識を失った。
 腕の中に捕らえた少女の無防備に晒された首筋に、レノはまた少しの間ためらったものの、結局心の中で
エレに謝りながら顔を寄せる。
 「…っ」
 牙を突きたて、口中にわずかに少女の血が流れこんだ途端、レノは慌てて顔を離して口を押さえた。げほ
、と咽ながら少女の血を吐き出すと、愕然とした表情で立ち尽くした。
 少女の血にはなにも害はなかったはずなのに、体が受け付けなかったのだ。
 意識を失っている間にあの貴族になにか厄介な呪いでも受けたのだろうかとも思ったのだが、あの男にそ
んな技術はないし、時間的にもそんな余裕はなかったはずだ。
 原因はわからないがとにかく吸血はできないとわかると、レノは少女を布の山に横たわらせて部屋を出た。
 闇にまぎれてできる限りの速さで移動したレノが外壁にたどり着いたころには、月が遠い山から顔を覗か
せていた。
 新月の夜でもある程度夜目がきくレノは、迷うことなく外壁の端まで進んでいく。
 篝火も届かない木に覆われた外壁は城の二階部分までの高さだ。傍の木をつたっていくにしてもまだ高さ
がある。しかしレノは隣の木には目もくれず、数歩下がって助走をつけて跳躍した。
 さすがに足から着地するには高さがあったが、無事なほうの手を外壁の端にかけてぶら下がる。反動をつ
けてもう一度伸び上がると、ようやく外壁の上に足がついた。目立たないように伏せたまま、町の明かりを
眼下に眺めて宿までの道順を頭に描くと、ためらうことなく外壁から身を躍らせた。







 夜の闇を押しのけてにぎわう町の一角で、宿の主人は途方にくれていた。今日までの舞台を頼んでいた馴
染みの吟遊詩人が出番間近だというのにまだ帰ってきていないのだ。
 真面目な性格だから、サボるということはありえないのだろうが、何か大変な事件に巻き込まれたのだろ
うかと何度も店の入り口に顔を向ける店主に一人の男が近寄っていった。何事かを熱心に店主に訴えている
らしく、渋面をつくっていた店の主人も徐々に青年の話に耳を傾け始めたその時、
 「どうかしたんですか?」
 トントンと軽やかに階段を下りる足音とともに、件の青年が何食わぬ顔でにっこりと微笑みかけてきた。
 「レノ!お前いつの間に帰ってたんだ?」
 驚いた顔でけれど店主は嬉しそうに青年に近づいていく。その隣では先ほどの男が信じられないといった
顔で立ち尽くしていた。
 「ちょっと前ですよ。マスターは丁度厨房にいたみたいで見かけなかったですけど」
 そういって愛用の竪琴を片手に穏やかに笑う青年だったが、今日はいつもの衣装に薄い紫のヴェールをか
ぶっている。長い前髪にそのヴェールがかかることで覗く氷色の瞳が紫にみえてミステリアスな雰囲気を醸
し出していた。
 「ところで、そちらの方は?」
 首をかしげるようにして今だ呆然と突っ立っている男をみる。男はそこでようやく我に返ったのか、もご
もごと歯切れ悪く言葉を濁す男の代わりに店主が答えようとして、しかし厨房からの呼びかけに慌しくその
場を離れた。
 喧騒の中、凍りついたように動かない男にレノが静かに歩み寄ると、わずかばかり高い男の顔を見上げて
嫣然と微笑んだ。
 「姑息な手段を使う暇があるなら、すこしでもその時間を練習につぎ込むべきだと思いませんか?ジェレ
ス」 血色の瞳で冷たい一瞥を寄越して、レノは悠然と踵を返して舞台へと向かっていく。男にはその背中すら
眼中にないほど、男の動揺は激しかった。
 依頼最終日の舞台は大盛況のうちに終わり、いくつかのアンコールを受けるうちに、ようやく部屋に帰る
頃には月も大きく傾いていた。
 一人になってようやく張り詰めてきた息を吐き出すと、着替えるのも億劫でそのままベッドに倒れこんだ。
 店主にはああいったレノだが、実際には店の裏手の空き家から裏庭に侵入していたのだ。時間も迫ってい
るせいで瞳の色が戻る余裕がなく、荷物をひっくり返してヴェールを被るだけしかできなかったが、なんと
か誤魔化しきれたようだった。ほっと安堵の息をついたが演奏に集中している間、意識の外に置いていた痛
みがぶり返してきて、包帯を巻いた腕に手を乗せた。
 こちらもブレスレットで目立たなくしているものの、数日は痛みと傷が残るだろうと思うと仕事後の高揚
した気分が少し落ち込んだ。
 「心配かけたくないんだけどな…」
 明日帰り着くまでに、言い訳考えとかないと…とぼんやり考えながらレノは眠りに落ちていった。














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