幸せだったあの頃と変わってしまった今と。泣きたくなるくらい幸せな居場所。







The moon of restraint and light of a thaw




 夜になり、ルシアンはボリスに教わりながら取ってきた魚をさばいて料理を作った。初めての事にぎこちな
いながらも一生懸命に魚と格闘するルシアンをボリスは急かさず、彼が怪我をしないようにさり気なく手伝い
ながら焼き魚とスープを作った。
 今までわがままし放題で育ったルシアンだが、好き嫌いはあるものの大概のものは良く食べる。焼き魚もス
ープも彼はとても気に入ったようで、おかわりをするほどだった。
 「魚もたくさん取れて料理も上手いなんて、ボリスは何でもできるんだね」
 寝る前に小屋の近くの草原で二人並んで寝転がり、星を見上げながらルシアンが呟く。
 「里をでてここにくるまで、俺はずっとひとりだったから…。でも、魚の取り方もスープの作り方も、昔兄
さんに教わったことだから、知らなかったら今俺はここにいなかったかもしれないな」
 「…お兄さん?」
 ボリスから初めて家族の話が出てきたことに、ルシアンが星空から友人に視線を転じた。彼は昔を懐かしむ
ような、どこか遠くを見つめる眼差しで星を眺めている。
 「兄さんと俺は半分しか血が繋がっていなかったけど、兄さんはとても俺を可愛がってくれた」
 「半分?」
 思わず首を傾げるルシアンに、異母兄弟なんだ、とボリスが告げる。
 「俺の父は人族の名のある貴族だった。兄さんは父上と最初に結婚した人族の貴族の娘との子供で、その人
はもともと病弱で自分の命と引き換えに兄さんを産んだらしい。その後、再婚したのが俺の母上である獣人族
で、母上もあまりからだが丈夫じゃなかったから、俺を産んですぐに里の森の一番奥の空気の綺麗な場所に小
さな屋敷をもらって、そこで俺と母上は暮らしていた」
 人とも同属とも隔たれた森の中で静かに暮らす母子。夫でありボリスの父親であるユルケン=ジンネマンは
滅多に訪れることはなかったが、兄であるイェーフネンは毎日のように足繁く屋敷とボリスたちの家を往復し
ていたのだという。継母と半分だけの血のつながりしかない弟に、イェーフネンはいつも優しい笑顔を向けて
くれた。
 そんな優しい兄と、穏やかに微笑む母。ボリスは二人がいればそれだけで幸せだったのだ。
 もしかしたらイェーフネンはボリスの母に自分の母の面影を重ねていたのかもしれない。けれどボリスの母
もやはりボリスが物心つくかつかないかという幼い時期に病でこの世を去ることになる。
 自分と似たような境遇でありながら、後妻の獣人の子供というだけでその後も屋敷に迎えられず、一人で森
の奥に暮らすことになったボリスを、イェーフネンはより一層心配して何度か屋敷に迎えようとしたのだが、
その誘いはボリス自身が頷かなかった。
 ボリスのいた里では獣人はほとんどおらず、しかも獣人を見下す傾向があったらしい。人族の名家の息子で
なければ、母が亡くなった時点で里の外に放り出されていただろう。そんな中で兄がどれだけ稀有な存在であ
るのか、幼心ながらにもわかっていたボリスは、兄に申し訳なく感じながらも結局最後まで屋敷に住むことは
なかった。
 「…いいお兄さんだったんだね」
 「…ああ」
 ルシアンの言葉に自分の事のように誇らしげに微笑むボリス。その笑みにルシアンは胸の奥がさざめいた。
昼間のとは違う、何かあまり良くない感じの黒い霧のようなものが確かにうごめく気がして、ルシアンはボリ
スの横顔から顔を背けた。
 何となく、面白くない。
 「…あの時、俺よりも…兄さんのほうが生き残るべきだったと、思うときがある」
 暗い影が落ちたような声音に逸らしていた目が思わずボリスに向けられる。先程までの誇らしい笑みとは真
逆の翳りと冷たい怒りと…どうしようもない哀惜に満ちた凍える冬を思わせる瞳。
 「…ボリス…」
 名前を呼んで、でも何を言うべきかわからずに、なにもいえないもどかしさに胸が締め付けられるようだ。
 ボリスはそれ以上なにも語るつもりはないのか口を閉ざした。見えなくて越えられない壁を目の前に突きつ
けられたような心地で、それでもルシアンはその壁をなんとしてでも突き破らないといけないと、ほとんど本
能的に感じて、気がつけばボリスの頭を自分の胸に抱え込んでいた。
 「…ルシアン…?」
 驚いたように見開かれた瞳。ルシアンはさらに抱え込むように抱き寄せる。
 「…そんなこと…自分がいないほうがいいみたいなこと、言っちゃダメだよ…」
 ルシアンの言葉に、ボリスの体が強張る。
 「僕はお兄さんのことは良く知らない。だけど、ボリスをとっても大事にしてたっていうのは、わかるよ」
 帰らぬ人となっても慕うボリスをみていればそんなことすぐにわかること。
 「そんなお兄さんが…ボリスにいないほうが良いなんて言ってほしいと思う?」
 「………」
 今初めて聞いた兄の事を、ルシアンがわかるわけはないとは、言えなかった。ルシアンの言うとおりだ。あ
の優しい兄ならきっと同じことを言うだろうことは想像に容易い。
 「ボリスはね、もう少し自分に優しくてもいいと思う。…僕はまだ頼りないけど、それでもいつか絶対強く
なるから。…ちょっとは頼ってよ」
 愛しいと思った。この頑なに人を拒むような甘え方を知らない友人が。
 これが好きってことなのかな、とルシアンは何となく昼に感じた、そしてついさっきの黒いもやの正体を悟
った。
 一つ一つの仕草が気になって仕方なくて、君の心を占めるお兄さんに嫉妬して。
 答えがわかれば至って簡単。
 僕はボリスのことが好き。
 好きだから、もういないお兄さんではなく、今いる僕を頼って欲しい。
 
 僕だけを、見て欲しい。

 「ボリスが生きてくれることが、お兄さんにとって何よりも大切な事だと思うよ」
 ちょっと卑怯かな、とも思いながら、ルシアンはイェーフネンの心を伝える。何があったかは知らないけれ
ど、きっと間違ってはいないと不思議な確信があった。
 「…そう、だな…」
 しばらくして、本当に小さな声でボリスが言うと、躊躇いながらもそっとルシアンの服の裾をつかんだ。
 「もう、少し…このままでいさせてくれないか…?」
 「うん」
 蚊の啼くような囁きに、ルシアンはにっこりと頷いて元の姿に戻ったボリスの長い髪に指を滑らせた。
 かすかに聞こえる虫のささやきだけがその場を支配する。
 涙も嗚咽も零さなくても、ボリスがようやく最愛の兄の死を悼むことができて、その傍らにいることを許さ
れただけでも、今のルシアンは満足だった。







 「…ねぇ、ボリス」
 「…なんだ?」
 小屋に戻る途中で、肩を並べて歩いていたルシアンが、ボリスを見上げる。
 「あのさ、僕、冒険家になるのが夢なんだ。…あともう少し僕たちが大きくなったら、一緒に旅しよう?そ
れでね、ボリスのその呪いを解こうよ」
 ルシアンの言葉に、ボリスは一瞬息をするのを忘れるほど驚いた。
 「あ!またすぐに飽きるだろとか思ってる?今度は本気の夢なんだよ!!」
 「…どうだかな」
 ルシアンの無邪気なの提案に、ボリスは何とか平静を装うようにして、ようやくそれだけ言った。途端にむ
くれる友人に思わず苦笑を零した。
 「今度のは絶対!!」
 「…そうか」
 勢い込んで拳まで固めるルシアンに、それだけ言って、ボリスは小屋に友人を押し込んだ。














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