残された時間は確実に削られていく







The moon of restraint and light of a thaw




 いつものように与えられた自室でボリスは月を見つめていた。ルシアンのもとにきて1年。今まで一月足ら
ずでモーガンのもとに返されてきた彼にとって思いがけず長く留まることになったこの屋敷で。彼は最近迷っ
ていた。
 親から何も聞かされていないルシアンがそれでもボリスを受け入れて以来、彼はルシアンの友達としてカル
ツ家に改めて受け入れられることになった。事実を知った使用人の中には、やはり戸惑いを隠せないもの、怯
えたように極力避けようとする者がいたが、主人たるカルツ家の人間が別段態度を改めなかったのが功をそう
したのか、次第にルシアンの友人としてボリスも当然のように受け入れられるようになった。これに一番驚い
たのはボリス自身だ。夫人もカルツ氏も話を聞いた上で引き取ったのだから、態度を改めないのは納得できな
くはない。息子であるルシアンもやはりあの屈託のない性格だからこそだといえる。けれど使用人まで多少の
時間差はあっても受け入れてくれるとは思わなかった。今までの経験からして人も獣人すら、呪われた子であ
るボリスに嫌悪感を抱きこそすれ、受け入れてくれることなどただの一度もなかったのだから。
 そして呪いの事はルシアンの両親にいったことに嘘はないがただ、言っていないことが一つだけ。今度この
カルツ家からモーガンの元に返される時、隙を見て逃げ出すつもりでいたから言わなかったことがあった。
今となってはモーガンの元に返される可能性はほとんどなくなってしまったが。 
 だからこそ、次第にボリスはここに留まることに躊躇いを覚えていくようになった。別に煩わしいわけでは
ない。むしろ受け入れてくれたことに感謝しているし、なにより自分を親友だといってくれたルシアンの言葉
が、存在が嬉しくてならなかった。このままここに留まり続けていたいとすら思えるほどに。
 けれど、それはしてはならないことだった。呪いの力は確実にボリスを追い詰めている。ハーフではあるが
いかな獣人族のボリスであっても、いつまでも呪いに抗い続けられるわけではない。おそらくあと2年が限度
だろうと、いやに冷静にボリスは検討をつけていた。
 あと二年。自身の命が持つのはそれが限界だ。呪いを解く為にはここに留まっている場合ではないのだ。し
かしその方法も、途方もなく無謀なものであることはボリスも知っていた。
 このままここに留まって、安寧とした死を待つか。ここを抜け出し無謀な賭けに挑むか。
 一人月を見上げながら、ただそれだけを思い悩む。
 選択の時はもうあまり遠くはない。




 「ねぇボリス。お前最近少し顔色悪くない?」
 日の当るテラスで毛足の長い絨毯の上に寝転がりながら、ボリスの髪を弄っていたルシアンが突然そんなこ
とを言い出した。
 「…そうか?」
 読んでいた本から顔を上げることもなく、文字を追いながらボリスが気のない返事をする。
 「だってお前もとから色白いほうだけど、最近とくに血の気がなくなってきてるような感じがするし、あん
まり食べなくなってるじゃないか、どこか調子悪いんじゃないの?」
 「特にそんなことはないが…気のせいじゃないのか?」
 内心の動揺をおくびにも出さずに軽く流すようなボリスに、しかし不安そうに瞳を揺らめかせたルシアンが
無理矢理ボリスの顔を自分に向かせる。
 「気のせいじゃない。現にお前の髪も耳も尻尾も艶がなくなってきてる」
 「…。俺は読書の途中なんだが?」
 読書を中断させられたことに眉を顰めるようにしてルシアンを見上げるが、予想以上の真剣な瞳と怒ったよ
うな表情をみて戸惑う。
 「ボリス、悩み事とかあるんじゃないの?…最近考え事してるみたいだから…」
 「………」
 ルシアンに、とっさに言葉を返すことが出来なくて、ボリスは視線をそらした。ルシアンが指摘したとおり、
最近ボリスはあまり体調がよくない。それは月が今新月に向かって欠けているため、月の魔力で抑えられてい
た呪力が勢いを増しているのと、あの選択を思って常に考え事をしているためである。
 しかしそのことを正直に話すわけにもいかないボリスは、ほんの少しだけ考えた後、ルシアンに顔を向けた。
 「まぁ、少し考え事をしてたのは確かだ。お前の剣の稽古のメニューをどうしようかとな」
 嘘ではないが、真実とも違う答えを口にして、軽くからかうような笑みを浮かべた。
 ここ最近、ルシアンは元に戻ったボリスに剣術を指南してもらっていた。なんでもない話の隅にボリスが剣
を扱えると知ったルシアンが、好奇心で自分にも教えて欲しいとせがんだことに端を発して、今では毎日元に
戻ってから1、2時間程度稽古をするようになっていた。
 最初はルシアンの両親もボリスも、すぐに飽きるだろうという風に思っていたのだが、予想に反して今まで
割と途切れることなく稽古は続けられている。そしてこれも意外な事に、ルシアンには剣の才があったらしい。
教えているボリスも驚くほどの上達を見せていて、軽い手合わせのようなものをするようにもなってきた。
 「…ほんとにそれだけ?」
 納得しかねるようなむくれ顔のルシアンに、ボリスは今度こそ優しい笑みを浮かべて彼の頭を撫でた。
 「ほんとうだ。…最近特に上達してきたからな。今日は何時もよりちゃんとした手合わせをしてみようかと
思っている」
 「ほんと?!よし!今日こそ一本とってやるっ」
 ボリスの言葉に俄然やる気を出したルシアンを見て、ボリスは苦笑した。
 同時にある決心を彼は心の中で固めていた。
 やはり自分はここを出て行くべきだ。無邪気にはしゃぐルシアンに、自分の死に際などみせて悲しませたく
ない。黙って出て行くのは忍びないが、いっそそれで嫌われてしまったほうがまだマシだ。
 読みかけの本にしおりを挟むことなく閉じてしまうと、ボリスはゆっくり立ち上がった。
 「ボリス?どこいくの?」
 気付いたルシアンが顔をあげるのを、やはり笑顔でボリスは見つめた。
 「本を返しに行くついでに、部屋で休んでくる。自覚はないが、手合わせの前に具合が悪いとダメだろう?」
 いつになく機嫌の良さそうな笑みを見せるボリスに、違和感を覚えて言い知れない不安感を感じながらも、
ルシアンは表面上は笑って頷いた。
 「わかった!おやすみボリス!!」
 「ああ、お休みルシアン」
 ルシアンと別れていったとおりに本を返すとボリスは自室のベットに倒れこんだ。体が鉛のように重い。
 明日は新月だ。明日はきっと体が言うことを聞かないだろうから、出発は明後日以降がいい。
ゆっくと閉じた瞼の裏に思い浮かべるのは先程の嬉しそうなルシアンの笑顔。どうしようもなく胸が痛んだが、
これ以上胸の痛みを酷くしないために、ルシアンにこれ以上の悲しみを与えてしまわないように、5日後。ボ
リスは屋敷を抜け出そうと決めた。
 「ルシアンは…きっと怒るだろうな…」
 自嘲の笑みとともにポツリと呟いたボリスの瞳は、切なそうに揺れていた。




 ここ何日か親友の体の具合がよくないように見えていたのは、やはり気のせいではなかったのだと、ルシア
ンは廊下を駆けながら眉を顰めた。彼の両腕に抱きかかえられている小柄な親友の顔色は青白いのを通り越し
てもはやロウよりも白い。昨日指摘したときはなんでもない顔をして、稽古にも付き合ってくれたのだが、や
はり無理をさせてしまったのだろうと、今更ながらに後悔した。 
 ボリスの部屋にたどり着き、そっと寝台に横たえるとすぐさま医者を呼びに行こうとしたが、わずかに服を
引っ張られる感覚にベッドのほうへ顔を向けた。
 「ボリス?!ダメだよっ寝てて。今お医者さまを呼んでーーー」
 意識がなかったはずのボリスが辛そうながらも体を起こそうとするのを慌てて止めに入る。
 「医者は…いい」
 「なんで?!」
 「病気じゃ…ない、から」
 ボリスの言葉にルシアンの表情が曇る。ボリスは苦労して腕を伸ばすとルシアンの柔らかな金髪をかき回し
た。
 「そんな顔をするな…。少し、眠れば…収まる…」
 「ほんとに?」
 なおも心配そうなルシアンに安心させるように笑いかけると、そのまま深い眠りに落ちていった。




 深い眠りの淵から徐々に意識が浮上していくにつれて、体に纏わりつく嫌な気配にボリスは内心忌々しそう
にため息をついた。
 月の加護が一番弱まる新月の夜は、抑えられていた呪いの力が目を覚ます。黒い蛇のようにボリスの魂を締
め付けて、元に戻ることすら出来ない全身が鋭い刃物で削ぎ落とされていくような鋭い痛みに襲われるのだ。
 それでもいつものように幼いときの思い出も、あの日の出来事も夢に出てこないから、まだ夜明けではない
のだろう。
 できることなら今日はその夢を見たくなかった。痛みだけならただ過ぎるのを耐え抜けばそれでいい。
 けれど夢は、覚めても又新しく傷になるだけだ。
 目を覚まして、現実を突きつけられるあの瞬間が何よりも切なかった。
 今は、大事な友人がいるから。痛むけれどまだ以前よりはずっとあの陽だまりのような明るさに救われてい
る。
 けれど今度は…彼を失う夢を見るようになった。兄との思い出やあのときの忌まわしい記憶に混じって、冷
たい闇の中で動かなくなった彼を抱きしめている。
 何度呼びかけても答えてくれない。笑いかけてもくれない。ただ力なく横たわる彼に、ボリスは言いようの
ない恐怖を覚えて目を覚ますのだ。
 そうして眠ることを恐れて夜明けを迎えることもあった。今までみてきた夢よりも、先に起こりうる可能性
を秘めているからこそ恐ろしくてたまらない夢。
 朝何時ものように顔を合わせて挨拶を交わすことで、アレは夢だったのだとようやく言い聞かせることが出
来てはじめて安堵の息をつく。
 それも…、あと片手で余るほどしかないのだけれど。
 そこまで考えていたとき、不意に何時もよりも呪力の拘束が弱いことに気付いた。いつもならこんなに悠長
に考え事をしている暇などないのにと、いぶかしむボリスは、不意に唇に暖かな感触を覚えた。暖かくて柔ら
かいなにか…。
 「…?」
 「あ…起こしちゃった?」
 ぼんやりと目を開けたボリスを覗き込むようにルシアンの顔が何故か至近距離にあって、ボリスは面食らっ
たように驚いた顔をした。
 「夕飯呼びにきたんだけど、ぐっすり眠ってたみたいだから…」
 「そうか…」
 答えながら試しに上半身を起こそうとして、やはり呪いのダメージで弱った体にはそれだけで相当な負荷に
なったらしい、起こしたもののふらついてベッドから転げ落ちそうになったところを寸でのところでルシアン
に抱きとめられた。
 「…大丈夫?」
 起き上がれないとわかるとおとなしく横になったボリスの寝台の端にルシアンも腰掛けた。
 「眠れば良くなる。…すまないが、今日はこのまま一人にしてくれ」
 「…うん…わかった」
 ボリスの言葉に何か言いたそうにしたものの、結局は素直に頷いて何度かボリスの髪を梳くと、静かに部屋
から出て行った。
 心配そうに何度も振り返りながら出て行ったルシアンの気配が遠ざかって、ようやくボリスはつめていた息
を吐き出した。そうして一人になった途端に痛みを増す体を抱え込むように体を丸める。
 ルシアンには申し訳ないが、何時ものように元に戻ることが出来ないと知れば、きっと彼は一晩中傍を離れ
ないだろうし、今よりももっと心配をかけてしまう。そんな事はしたくなかった。
 そして明日ルシアンを安心させるためにも、今は夢を見ないくらい深く眠るようにしなければ。そうしてふ
と目を覚ますきっかけになったあの暖かい何かは何だったのだろうと首を傾げた。
 ルシアンに魔法の心得があったとは思えなかったが、あれのおかげで痛みが少し和らいでいるのも確かだ。
明日聞いてみようと思いながら、黒い蛇の呪縛から唯一逃れられる眠りの海に深く沈んだ。 















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